表現のための技術(理科系の作文技術)

音楽とかダンスとか,そういうアーティスティックな分野において,いいとか悪いという判断をしたり指導したりする技術を持っている人はすごいと思う.一応音楽のほうは,教育を受けたけれど,残念ながらほぼ,いやいややっていたので「いい感じorいくない感じ」以外に表現できない自分をときどき残念に思う.

また,工業分野に関する英才教育を受けてきた,と言っていい道を歩いてきたけれど,結局のところ,僕にとってほとんどの数学や物理、専門科目の公式は,現実問題を解決を行うための技術ではなく,テストに対する手段でしかなかったから、この分野においても、あまり花開くことはできなかった。

英語も然りだな。

そんななかで唯一、わずかながらに自信があるのは日本語の作文で、と言ってもこれは文学的表現などといった類では勿論なく、またブログや随筆のようなどうでもいいけれど人の興味を持つようなもの、というものでもなく、ただ単に事実を伝えるための社内報告書といったものすごく小さい話なんだけれど、学生のときに(いまや世界一の会社になった)企業における実習で「報告書と言うものは自分のために書くのではなく、読んでもらうために書くものだ」と教えられてから考え方を改め、教科書として使われていた「理科系の作文技術」を読み直したり、様々な作文やプレゼンなどを行う中で、表現方法を少しずつ身につけてきたんじゃないかと思う。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

特に、普段僕が属しているこの小さな環境の中では、たとえそれが正論であり精密であろうと、小難しいことを書いても目も通してもらえないので、多少、論理的に不正確であっても、読んでもらい理解してもらうことが、もっとも重要なミッションだと思い(多少ガラパゴスだなと思いつつも)そういう意識を持ち続けている。そういうところが理系と文系のハイブリッド(≠どっちつかず)である自分の活かしどころだなと思ったりする。

さて、そこで翻って、2代続いた理系出身のリーダーだけれど、その業績の是非はともかくとして、アカウンタビリティという部分で、いかにも残念な意味での理系らしさが出てしまったというか、国民との会話が成立できなかった点は残念だなと、期待していた分、思わざるを得ないな。このあたりは、その担い手であるメディアにも問題があるというのは、いまさら言うことではないけれど、もしそうならば、表現のための技術を、もっと違う方法を考えたほうがいいんじゃないかと思う。

「こうしたら必ずよくなります。わたしが責任を持ちます」っていうのはもうやめようよ。